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感動をつくる人の原点|Season2 第12話 マエストロとの出会い
東京でダンサーの仕事を始めた頃、 私は、あるレストランのステージショーに出演することになった。 そのショーの演出家が、Larry Billman (ラリー・ビルマン)さん 細身だけれど背が高く、いかにも“アメリカ人”という雰囲気の男性だった。(笑) そして、その瞳はとても優しかった。 後に私が、「マエストロ」と呼ぶことになる人物だった。 私は彼が手がける作品に関わりながら、それまで自分が知っていた劇場という世界の外にも、さまざまなエンターテインメントがあることを知った。 Larryさんは、作品をつくるだけの人ではなかった。 出演者を集めて、ダンスについての講義を開いてくれることもあった。 ジャズダンスをはじめ、さまざまなダンススタイル。 映画やミュージカルの話。 日本ではまだあまり知られていなかった世界を、実演を交えながら楽しく教えてくれた。 私たちにとって、その時間は毎回、新しい発見の連続だった。 そして何より、Larryさんはジョークが大好きだった。 いつも笑顔。 現場には自然と笑いが生まれる。 出演者だけではない。 スタッフも含め、その場に
12 時間前


感動をつくる人の原点|Season2 第11話 夢の国への入口
あの日の夕方、東京ディズニーランドへ向かった私は、東京のお父さん、お母さんと一緒に、そのおすすめのショーを観に行きました。 「Swing and Sing」 プラザパビリオン・バンドスタンドという、アメリカ映画に出てくるような白いガゼボ(東屋)のステージ。 18人編成のビッグバンドの生演奏に乗せて、外国人出演者と日本人出演者が一緒になって、1930年代のスウィングジャズを、おしゃれに歌い踊るショーでした。 夕暮れ時には、風を感じながら楽しむ軽やかなショー。 そして、夜空を彩る花火が終わったあとのステージは、ライトアップされたバンドスタンドにビッグバンドの音が響き渡り、また違った表情を見せてくれました。 大人の雰囲気に包まれた、パワフルで上質なエンターテインメント。 「こんなディズニーもあるんだ。」 それまで、ディズニーといえば、ミッキーやミニーたちが活躍するキャラクターショーを思い浮かべていた私には、キャラクターが登場しないこのショーは、とても新鮮な驚きでした。 そして、私が惹かれたのは、そのショーだけではありませんでした。 ワールドバザールから
2 日前


感動をつくる人の原点|Season2 第10話 もう一度、あの場所へ
1983年2月10日。 私は、黒紋付に緑の袴という宝塚の伝統的な正装を身にまとい、大階段を降り、宝塚歌劇団を退団しました。 そして、新しい人生を歩み始めました。 その約二か月後。 1983年4月15日、東京ディズニーランドがグランドオープンしました。 当時、東京のお父さん、お母さんのように私を支えてくださっていたご夫妻からお声をかけていただき、グランドオープニングの前夜祭と、オープニング当日に、VIP席へご招待いただきました。 そこに広がっていたのは、それまで私が見たことのない世界でした。 屋外に響き渡る、前田憲男さん率いるフルオーケストラの華やかな生演奏。 目の前で繰り広げられるパフォーマンス。 そして、スーザン・アントン、パット・ブーン、ダニー・ケイ、リチャード・チェンバレンをはじめ、アメリカを代表するエンターテイナーたち。 まるでアメリカのショービジネスそのものが、日本へやってきたような空間でした。 それまで私が知っていたのは、 劇場の緞帳が上がり、舞台から客席へ作品を届けるものでした。 けれど、そこでは違いました。 ...
6 日前


感動をつくる人の原点|番外編 アルバムを開く日
第9話を書き終えたあと、 久しぶりに宝塚時代のアルバムを開いてみました。 ページをめくっていると、 「ああ、こんな役もやったな。」 「この衣装、懐かしい。」 そんな記憶が、次々と蘇ってきます。 今日は、番外編として、 皆さんと一緒に、懐かしい宝塚時代のアルバムをめくってみたいと思います。 宝塚の舞台では、作品や役によって、本当にさまざまな衣装を着せていただきました。 可愛らしい娘役もあれば、少し大人っぽい役もあり、 そのたびに、髪型やメイクも変わります。 華やかなレビューの舞台も大好きでしたが、もちろん、お芝居の作品にもたくさん出演しました。 時代も、国も、役柄もさまざま。衣装を着て、メイクをして、その役として舞台に立つ。今、写真を見返してみると、本当にいろいろな人物を演じていたのだなと思います。 そして宝塚の舞台では、 洋物だけでなく、日本物のお芝居やレビューショーの舞台にも立ちました。 衣装さんに、着物を着付けていただき、床山さんに、かつらをつけてもらい、 宝塚独特のオーケストラの演奏で日本舞踊を踊る。 同じ舞台の上でも、 ...
8月11日


感動をつくる人の原点|Season2 第9話舞台の上、舞台の向こう
アニーの公演が終わり、私は再び宝塚の舞台へ戻りました。 毎朝のダンスレッスン。 宝塚大劇場公演の稽古。 東京宝塚劇場公演の稽古。 地方公演の稽古。 イベント出演の稽古。 それぞれの舞台へ向けた稽古に加え、 『宝塚』や『宝塚グラフ』などの撮影にも参加し、 娘役として、毎日があっという間に過ぎていく、忙しくも充実した日々を送っていました。 アニー出演のために増やした体重も、再び娘役らしい体型へ戻さなければなりません。 踊ることを我慢していた時間を取り戻すように、毎日レッスンを重ね、少しずつ本来の身体へ戻していきました。 その時、親身になって支えてくださったのが、お世話になっていた振付師のマコちゃん先生(羽山紀代美先生)でした。 先生は、いつも私のことを気にかけてくださり、時には厳しく、時には優しく見守ってくださいました。 でも、アニーで見た制作現場の景色は、私の中から消えることはありませんでした。 舞台に立つことだけではなく、 作品をつくること。 振付を考えること。 演出を組み立てること。 そんな、作品を生み出す側の仕事に、私は少しずつ惹かれていった
8月10日


感動をつくる人の原点|Season2 第8話 舞台の向こう側が見えた日
宝塚本公演『誰が為に鐘は鳴る』の上演中、私は外部公演ミュージカル『アニー』に出演することになりました。 初めての東京での生活。 とはいえ、東京には心強い存在がいました。 初舞台を踏んだ頃から、ずっと私を応援してくださっていたご夫妻です。 私にとっては、東京のお父さん、東京のお母さん。 私は、パパ、ママと呼んでいました。 アニーの主演が決まったことをお知らせすると、 「こちらでお預かりしますから、安心してください。」 そう言ってくださり、母も安心して私を送り出してくれました。 こうして私は、毎朝そのお家から東宝の稽古場へ通うことになりました。 そこには、宝塚とはまったく違う世界が待っていました。 ウォーバックス役の若山富三郎さん。 グレース役の近衛真理さん。 ルースター役の真島茂樹さん。 子どもの頃からテレビで見ていた『魔法使いサリー』の声でおなじみの平井道子さん。 そして、舞台でサンディを演じる、とても賢い犬。 今考えれば、 「とんでもないところに入ってしまった。」 と思ってもよさそうなものです。 でも、その頃の私は、そんなこともよく分かっていま
8月8日


感動をつくる人の原点|Season2 第7話 人生を変えた一本の電話
劇団に入団した私は、 宝塚歌劇団の研一(研究科一年生)となり、 初舞台を終えた後も、 宝塚のさまざまな作品で舞台に立ちながら、 少しずつ舞台人として成長し、 楽しくも忙しい毎日を過ごしていました。 そんなある日。 『誰が為に鐘は鳴る』の公演中、 楽屋に一本の連絡が入りました。 「終演後、事務所へ来てください。」 理由は分かりません。 「何だろう?」 そのくらいにしか思っていませんでした。 終演後、 劇団の事務所へ向かうと、 大きな会議室へ案内されました。 部屋の中には、 普段劇団では見かけない男性の方々が並んでいます。 少しだけ、 いつもと違う空気。 でも、 その頃の私は、 オーディションというものを経験したことがありませんでした。 だからでしょうか。 緊張するという感覚もありません。 「では、この曲を歌ってください。」 ピアノの伴奏が始まります。 歌います。 「はい、次は台詞を言ってみてください。」 台詞を喋ります。 「じゃあ、もう一曲。」 言われるままに歌い、 言われるままに喋り、 気がつけば終わっていました。 「あ
8月6日


感動をつくる人の原点|Season2 第6話 束の間のオアシス
予科生の一年が終わりました。 そして私は、 本科生になりました。 予科生は、たった一年。 でも、 あの一年は、 とても長く感じました。 だからこそ、 本科生になれた日。 私は、 心の中でこう思いました。 「やっと天国だ。」 (笑) 本科生になると、 予科生の頃は許されなかったことが、 色々と許されるようになりました。 制服の着こなし。 スカート丈。 ヒールの靴。 髪型。 お化粧。 娘役を目指す私は、 ポニーテールにしたり、 リボンをつけたり。 鏡を見る時間も、 少し楽しくなりました。 同期のお姉さんたちが、 「眉毛はこうするといいわよ。」 「ここはもう少しこうした方が可愛い。」 そんなふうに、 いろいろ教えてくれました。 まだ16歳。 やっぱり、 可愛くなれることは嬉しかったのです。 でも、 制服を自由に着こなせるようになったからといって、 のんびりしている時間などありませんでした。 私は、 学校が終わると、 声楽。 日本舞踊。 お琴。 タップダンス。 それぞれの個人レッスンへ向かいました。 同期のみんなも、 声楽。 クラシックバ
8月4日


感動をつくる人の原点|Season2 第5話 何も疑うことを知らない15歳の私
合格発表の日。 私の頭の中は、 可愛い制服を着られる喜びでいっぱいでした。 でも、 その制服に袖を通した日から始まる毎日が、どれほど厳しいものなのか。 15歳の私は、 まだ何も知りませんでした。 入学式の日。 初めて制服に袖を通しました。 鏡に映る自分を見ながら、「見て見て! 私、宝塚音楽学校の制服を着てる!」 そんな気持ちでいっぱいでした。 嬉しくて、 誇らしくて、 早く誰かに見てもらいたい。 制服姿のまま、 地元の町を歩くのも楽しみでした。 当時は、 町内のみんなが顔見知りでした。 まるで、親戚のおじちゃん、おばちゃんのような存在でした。 電気屋さん。 お米屋さん。 お肉屋さん。 お魚屋さん。 駄菓子屋さん。 みんな道で会うたびに、「宝塚、合格したんだね!」 「おめでとう!」 そんな温かい言葉をかけていただきました。 15歳の私には、 それがとても嬉しかったのを覚えています。 そして、 毎日の通学が始まりました。 阪急宝塚南口駅から、 音楽学校へ向かう道。 武庫川に架かる、 宝塚大橋。 全長154.2メートル。 春も。 夏も。 秋
8月2日


感動をつくる人の原点|Season2 第4話 夢の扉が開いた日
翌日。 宝塚音楽学校の合格発表の日がやってきました。 当時は、 今のようにインターネットで結果を見る時代ではありません。 音楽学校の入口に、 合格者の番号が貼り出されます。 不思議なことに、 自分の番号を見つけた瞬間のことは、 あまり覚えていません。 でも、 あの日、 音楽学校の門の前に広がっていた景色だけは、 今でも忘れることができません。 合格して涙を流す人。 悔しくて涙を流す人。 その隣で、 一緒に泣いているご家族。 夢が叶った涙。 夢が届かなかった涙。 15歳の私は、 人生で初めて、 そんな光景を目の前で見ました。 夢には、 笑顔だけではなく、 涙もある。 そんなことを、 あの日初めて知ったような気がします。 私も、 声楽の先生の教室で一緒に頑張ってきた仲間たちと集まりました。 先生のもとから受験したのは、 七人ほど。 そのうち六人が合格しました。 今思い返しても、 本当にすごい合格率だったと思います。 そして私は、 お世話になった一つ上の先輩の制服の胸で、 泣いていたことだけは覚えています。 嬉しかったからなのか。 安心したからなの
7月31日


感動をつくる人の原点|Season2 第3話 「見学」のつもりで受けた受験
宝塚音楽学校の受験を決めたものの、声楽の先生からは、「今回は、入学試験の会場を見学するつもりで受けてごらんなさい。」 そう言われていました。 今思えば、 先生は私を必要以上に緊張させないように、 そう言ってくださったのかもしれません。 でも15歳の私は、 その言葉を、 かなり素直に受け取っていました。 「見学のつもり。」 つまり、 少し気楽に行けばいいんだ。 そんな気持ちだったのかもしれません。 とはいえ、 何も準備をしていなかったわけではありません。 毎週日曜日の朝になると、 同じ先生のもとで受験する仲間たちが、 先生のお宅に集まりました。 課題曲。 自由曲。 新曲視唱。 聴音。 そして、 面接での立ち方や座り方、 歩き方まで。 まるで入学試験の模擬レッスンのような時間が、 毎週行われていました。 声楽を始めてまだ三か月。 分からないことばかりでしたが、 一つひとつ教えていただきながら、 受験の日を迎える準備をしていきました。 子どもというのは不思議なもので、 親に言われるより、 先生に言われたことの方が素直に聞けたりするものです。(笑) そし
7月29日


感動をつくる人の原点|Season2 第2話 夢は「憧れ」から「目標」へ
第1話では、 応接間のテーブルに置かれたアルバムを、一緒に開いていただきました。 そのページをめくると、 そこには15歳の私がいました。 人生で初めて、 自分の進む道を選ぶ時です。 当時、私はクラシックバレエを続けていました。 そんなある日、 バレエの先生に、 「宝塚音楽学校を受験したいと思っています。」 そうお話ししました。 すると先生は、 少し意外なお返事をされました。 先生には、 私をロシアへ留学させたいという思いがあったのです。 当時の私は15歳。 今思えば、 高校を卒業した後の留学まで考えてくださっていたのかもしれません。 先生が、 私の将来を真剣に考えてくださっていたことは、 今でも本当に嬉しく、感謝しています。 一方で、 私の心は、 少しずつ別の世界へ向かっていました。 それが、 宝塚歌劇団です。 とはいえ、 受験するには大きな問題がありました。 バレエは続けていました。 ピアノも習っていました。 でも、 受験に必要なものが、 もう一つありました。 声楽です。 歌うことは大好きでした。 中学生になると、 友達とバンドを組み、 友達が
7月27日


感動をつくる人の原点|Season2 第1話 なぜ今、この物語を書くのか
Season1を書き終えたあと、 私は少しだけ立ち止まりました。 40話を一気に書き続けた日々。 走り続けていた時間が終わり、 久しぶりにゆっくりと流れる時間を過ごしていました。 そんな中で、 Season1を読んでくださっていた方から、 「もっといろいろな話を聞きたい。」 「毎日楽しみにしていたので、投稿を続けてください。」 そんな嬉しいメッセージをいただきました。 その言葉にも背中を押され、 もう一度、 自分自身と向き合ってみようと思いました。 そこで書き始めたのが、 このSeason2の序章です。 ピアノとの出会い。 踊りとの出会い。 父との別れ。 本格的なバレエとの出会い。 そして、 家の中の私だけの小さな舞台。 書いているうちに、 忘れていた景色や匂い、 あの頃の気持ちが、 次々と思い出されてきました。 そして、 一つ気づいたことがあります。 今の私が、 作品づくりで大切にしていること。 人を育てること。 感動を届けること。 その原点は、 演出家になってから生まれたものではありませんでした。 子どもの頃に出会った人たち。 見てきた景色。
7月25日


感動をつくる人の原点|序章⑤舞台は、いつも私の遊び場だった
私が子どもの頃、家の中には小さな舞台がありました。 昔の家は畳の和室。 その畳と畳の間の隙間に、祖母が着物を仕立てる時に使っていた竹の物差しを一本、差し込みました。 それが、私のスタンドマイク。 そして、そこが私の舞台でした。 当時流行っていた歌を歌いながら、踊る。 家族や親戚がお客さん。 私は、歌って踊ることが大好きでした。 今思えば、あれが私にとって最初のエンターテイメントだったのかもしれません。 そんな毎日を過ごしていた私にとって、江川バレエスクールの舞台は、何より楽しみな時間でした。 一年を通して、季節ごとに舞台へ立つ機会がありました。 その中でも、私が一年で一番楽しみにしていたのが、夏の発表会でした。 会場は、宝塚歌劇団の大劇場。 朝早く劇場へ入り、場当たりを終えると、先生や生徒、保護者のみんなで宝塚ヘルスセンターへ移動します。 夕方になり、歌劇団の公演が終わると、今度は劇場の楽屋へ。 あの頃の私には、それだけでも特別な一日でした。 今思えば、あの楽屋に入れたことは、とても貴重な経験だったのだと思います。 でも当時の私は、そんなことより
7月23日


感動をつくる人の原点|序章④私を育ててくれた場所
今でも時々、あの香りを思い出すことがあります。 甘くて、どこか安心するような、みんながつけていたパウダーの香り。 ベビーパウダーだったのかな。 その香りを嗅ぐたびに、私はバレエスクールに通っていた頃の自分に戻ります。 父が亡くなり、母と兵庫県西宮市の母の実家へ引っ越した私は、隣駅の仁川にあった江川バレエスクールへ通うことになりました。 関西では知らない人がいないほど有名な、歴史あるバレエスクールでした。 スクールの玄関には数段の階段があり、その先には大きなガラスの扉。 右側には受付があり、奥にはみんなが着替える部屋。 反対側には螺旋階段があって、それを上がると、大きな窓が印象的な広い稽古場がありました。 窓の外には阪急電車。 レッスンの合間に、電車が走っていくのを眺めていた景色を、今でもよく覚えています。 私の最初の先生は、岡村先生。 まだ若くてハンサムな先生だったので、みんな「ケンちゃん」と呼んでいました。 もちろん先生には、 「ケンちゃん先生でしょ!」 と、よく注意されていました。(笑) それまで習っていたモダンバレエとは違い、江川バレエスク
7月20日


感動をつくる人の原点|序章③人生が動き始めた日
小学1年生の3学期。 私の人生は、大きく動き始めました。 その冬の夜。 父が突然、脳溢血で倒れ、そのまま帰らぬ人となりました。 当時の私は、まだ小学1年生。 「おやすみなさい。」 そう言って布団に入ったことだけは、今でも覚えています。 その後、父は犬の散歩へ行き、帰宅してお風呂に入り、そこで倒れました。 当時は今のような救急医療も整っておらず、父はそのまま帰らぬ人となりました。 父との最後の会話は、 「おやすみなさい。」 その一言でした。 それから間もなく、母と私は、兵庫県西宮市に住む祖父母の家へ引っ越しました。 子どもだった私には、人生が変わったという実感は、まだありませんでした。 むしろ覚えているのは、給食の牛乳が、脱脂粉乳ではなく、一人一本ずつ瓶に入っていたこと。 「もう、あの脱脂粉乳を飲まなくていいんだ。」 そんなことを、本気で喜んでいました。 子どもというのは、案外そんなものなのかもしれません。 でも、今振り返ると、あの日を境に、私の人生は少しずつ違う方向へ進み始めていました。 父を亡くしたこと。 祖父母と母との4人で暮らすことになった
7月17日


A.M.J Summer Greeting 2026
いつもA.M.Jホームページをご覧いただき、ありがとうございます。 暑い日が続いておりますが、皆さま、いかがお過ごしでしょうか。 私たちは、この夏も、人の心に残る感動を届けられるよう、歩みを続けています。 皆さまにとって、笑顔あふれる素敵な夏となりますように。 Feel the Passion. Feel the Rhythm. —A.M.J Enterspace, Inc.
7月15日


感動をつくる人の原点|序章②踊りと出会った瞬間
広島県福山市に住んでいた小学1年生の頃、私の家の隣には6年生のお姉ちゃんが住んでいて、そのお姉ちゃんがモダンバレエを習っていました。 私が「バレエを習いたい」と母に言うと、本当はクラシックバレエを習わせたかったようですが、近くに教室がなかったため、そのお姉ちゃんが通っていたモダンバレエの教室に、私も通うことになりました。 それが、踊りとの最初の出会いでした。 たまたま通い始めてすぐに発表会があり、その舞台に参加することになります。 自分が出演するシーンの振付はとても簡単で、たしか ヒヨコ だったと思います。 それはすぐに覚えてしまいました。 そして稽古場では、お姉ちゃんたちのクラスの振付も見て覚えていました。 発表会の日。 お姉ちゃんたちが、舞台で踊っているのを袖の中で見ていた私は、その覚えた振付を一緒に袖の中で踊っていました。 そしてヒヨコの衣装のまま、少しずつ袖の中だけではなく、徐々に徐々に舞台へと出ていってしまったのです。 気づけば、舞台の上で踊っていました。 先生は、慌てて 何度も私を袖の中へ連れ戻しに来ていたようですが、また、すぐ出てい
7月14日


感動をつくる人の原点|序章①最初に出会った音
私が最初に始めた稽古事は、母と一緒に通い始めたピアノでした。 たしか3歳くらいだったと思います。 もしかしたら歌のレッスンもあったのかもしれないけれど、そこは、あまり記憶にありません。 当時住んでいたのは、静岡県浜松市。 社宅の一軒家で、広い庭があって、大きな犬がいました。 名前は、ミッキー。 (後にこの名前に縁を感じることになります。) 向かいの同じ社宅には、音大に通っているお姉さんが住んでいて、まだ私の家にピアノがなかったので、その家にあるグランドピアノで練習させてもらった記憶があります。 でも正直に言うと、その頃から私は、ピアノがそんなに好きではなかったかもしれません。 好きか嫌いかと聞かれたら、たぶん、嫌いだった。 それでも、なぜか続いていました。 父の転勤で、広島県福山市へ引っ越してからも、ピアノは続いていました。 この時に習っていた男性の先生のレッスンは好きで、楽しかったと記憶しています。 教え方が上手だったのかもしれません。 この時期が、唯一ピアノを好きになって、ちゃんと練習した時期だったような気がします。 バイエルの赤、黄色、ブル
7月11日


感動をつくる人たち|第40話 誰もが、誰かの「感動」をつくっている
〜Season1 グランドフィナーレ〜 ※この記事は、2026年5月24日、Season1完結の日にリアルタイムで綴った記録です。 第39話をSeason1の締めくくりとして再構成したため、この第40話は当時の記録として、そのまま残しています。 昨日、第39話でのシーズン1の幕を、この第40話で下すお知らせをさせて頂きました。 早速 LINEやメッセンジャーなどで、たくさんの温かいコメントやメッセージをいただき、本当にありがとうございました。 「まだまだ続けて!」 「こんな話を聞いてみたい!」 そんな言葉に、胸が熱くなっています。 (そして、まだまだ“ これ知りたい! ”は募集中ですので、思いついたらいつでも送ってくださいね!) さて。 本日で、この連載『感動をつくる人たち』も、ついに第40話。 ひとつの節目であり、 Season1のグランドフィナーレを迎えることができました。 4月10日。 TV番組『沸騰ワード10』で放送された宝塚密着ドキュメンタリーを見て、思わず書いた感想から始まったこの連載。 気がつけば40話。 本当にあっという間で
5月24日
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